大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪地方裁判所 平成5年(ワ)4274号 判決

原告

井貝みどり

右訴訟代理人弁護士

齋藤ともよ

西村陽子

高瀬久美子

太田真美

被告

古妻クリニックこと

古妻嘉一

右訴訟代理人弁護士

葛井重雄

主文

一  被告は、原告に対し、金二五〇万円及びこれに対する平成三年二月二八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを五分し、その四を原告の負担とし、その余は被告の負担とする。

四  この判決は、第一項につき、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  請求

被告は、原告に対し、金一一九一万六八五二円及びこれに対する平成三年二月二八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、右の乳房にしこりを発見した原告が、被告の診察を受け、乳癌であると診断されて被告の執刀により手術を受けたところ、原告の乳癌は乳房温存療法に適しており、原告も乳房を残す手術を希望していたのに、被告は、原告に対して乳房温存療法及び手術の内容について十分に説明しないまま原告の意思に反して原告の乳房を切除する手術を行ったとして、被告に対し、診療契約上の債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償を請求した事案である。

一  争いのない事実

原告は、昭和二三年生の既婚の女性である。

被告は、肩書地において、「古妻クリニック」という名称で医院(以下「被告医院」という。)を開設し、医業を営む医師である。診療科目は、外科、整形外科、胃腸科、内科、理学療法科であり、「乳腺特殊外来」との表示を行っている。

原告は、平成三年一月中旬ころ(以下「平成三年」は省略する。)、右乳房右上部分の腋の下に近いところに、小さなしこりを発見し、同月二八日、「乳腺特殊外来」と看板に表示し、乳癌研究会員であることを標榜している被告医院を訪れ、院長である被告の診療を受けた。

被告は、原告に対し、触診、乳房のレントゲン検査(マンモグラフィー)を行った。

被告は、原告に対し、一月三〇日には、乳房の超音波検査(エコー)と、しこりに注射針を刺して細胞を吸引する吸引細胞診を、二月一二日には、メスを入れてしこりを取り出す生検(バイオプシー、試験切除)を行ったうえ、原告のしこりは乳癌であると判断して、二月二八日、しこりを切除する手術を行った(以下「本件手術」という。)。実施された手術の術式は、胸筋温存乳房切除術であり、原告の右側乳房は全部切除され、右乳房の周辺部分の脂肪も広範囲に取り除かれた。

二  争点

1  本件手術について、被告には、術式の選択において過失があったといえるか。被告には、原告に対し乳房温存療法を実施すべき義務、又は原告に乳房温存療法を受ける機会を与えるべく同療法を実施している病院へ原告を転送する義務があったか。

(原告の主張)

乳房温存療法は、当時、乳癌治療に携わる外科医、放射線科医の間でよく知られており、我が国でも既に実施されていた。

乳房温存療法は、従来から行なわれてきた切除術と比較して大幅な縮小手術にあたり、身体に対する医的侵襲は格段に小さくなって危険が減少し、術後の身体及び精神への影響も良好な治療法である。

したがって、患者が乳房温存療法の適応にある場合には、医師はその患者に対して乳房温存療法を実施すべき義務があるというべきであり、自らが実施しない場合には、乳房温存療法を実施する医療機関にその患者を転医させるべき義務があるというべきである。

仮に乳房温存療法が新規の治療法であるとしても、新規の治療法に関する知見が、当該医療機関との類似の特性を備えた医療機関に相当程度普及しており、当該医療機関において、右知見を有することが相当と認められる場合には、特段の事情が存しないかぎり、右知見は右医療機関にとっての医療水準であると言うべきであるから、当該医療機関にはやはり右治療を実施する義務があり、また、自ら実施できないときには患者を右治療を実施している医療機関に転医させる義務があるというべきである。

被告の、原告の乳癌に対する手術前の所見は、しこりの大きさは一センチメートル×一センチメートルで、病期はⅠ期であり、腋窩リンパ節にふれないものであるとされており、原告の乳癌の状態は、当時、乳房温存療法を行なっていたすべての医療機関における乳房温存療法の適応基準を満たしていた。

そして、被告は、開業医としては数少ない乳癌研究会の会員であるなど乳癌の専門医であり、原告が乳房温存療法の適応にあることを知っていた。

したがって、被告には、原告に対し、右療法の実施義務又は転送義務があったというべきである。

(被告の主張)

本件手術の行われた平成三年二月二八日の段階では、当時の最高の医学水準という面でとらえた治療法としては乳房切除縮小術であり、乳房温存療法はいまだ試験的段階であって、確立された治療法ではなかった。

当時は、乳房温存療法について、医学的に確立された患者の手術適応の基準はなく、被告には、原告が、乳房温存手術の適応にあるという認識はなかった。

したがって、被告には、原告に対し乳房温存療法を実施すべき義務がなく、また同療法を実施している病院へ原告を転送する義務があったともいえない。

2  本件手術を実施するに際し、被告は、原告に対し、説明義務を尽くしたといえるか。被告には、原告が乳房温存療法を選択できるように、同療法について原告に説明する義務があるか。

(原告の主張)

医師が、患者に対し、手術のような医的侵襲を伴う治療を行なう場合には、診療契約に基づき、患者において、当該治療を受けるか否かを決定する前提として、患者に対し、①その症状、②治療の方法・内容・必要性、③その治療に伴い発生の予測される危険性、④代替的治療方法の有無・予後等について、当時の医療水準に照らし、相当と認められる事項をできるだけ具体的に説明する義務がある。

したがって、医師は、乳癌の手術を行なうに際して、患者に対して、最低限、①病名、②病気の進行程度(病期)及び悪性度(乳癌の性質)、③乳癌の治療方法としてどのような方法があるか、④その患者に関して選択可能な治療法及びその利害得失、⑤手術に伴う後遺症や術後の状態について、当時の医療水準に照らして、医学的観点から正しい内容の説明をし、患者の承諾を得なければならないところ、乳癌の手術の方法には、大別して、①ハルステッド手術、②胸筋保存乳切、③乳房温存療法の三種類があり、右の三つの方法では術後の身体の外観や機能が著しく異なり、患者の精神的苦痛の程度にも大きな違いがあるのであるから、乳癌の手術に際し、医師が患者の承諾を得るには、各術式の内容、術後の治療方法、他の術式との差異を説明し、術式を特定して承諾を得なければならない。

しかるに、被告は、「お乳を残すと放射線でお乳が固くなり、色も黒ずんで」「お乳を残すと、また切らなければなりません。」という医学的に明らかに誤った説明をしたばかりでなく(作為による説明義務違反)、単に「全部取ります。筋肉は残します。」と告げただけで、原告の病名、病気の進行程度(病期)、及び悪性度(乳癌の性質)について何ら説明せず、原告に対して行なおうとしていた手術の具体的な内容や手術に伴う後遺症や術後の状態について説明をしなかった過失(不作為による説明義務違反)がある。また、「パパニコロー染色法でクラスⅤ」という素人の原告には理解することのできない説明をして、同時に病期について説明をしないことによって、原告の症状が大層悪いと誤信させて衝撃を与えた過失(作為と不作為の入り交じった説明義務違反)がある。さらに、被告は、原告にとって選択可能な治療法である乳房温存療法が存在すること及びその手術の具体的な内容及び乳房切除術との利害得失について説明を怠った(不作為による説明義務違反)。

(被告の主張)

被告の説明義務の範囲は、①病名とその状態、②治療法の内容、③代替可能なその他の治療法、④それらに伴う副作用や危険性、副作用からの回復の可能性、⑤予後である。

被告は、①について、乳癌であること、しこりの大きさが一センチメートル×一センチメートルで、充実腺管癌であること、②について、乳房を全部取ることと、筋肉を残すこと、③について、乳房を温存する術式はあるが、まだ未知の段階で局所再発の危険があり、また、放射線を併用することになり、そのため局所が黒く変色すること、④について、乳房切除縮小術に関して、乳房が切除されることにより外観が悪くなること、胸筋が温存されるのでリハビリが容易であること、局所再発の予防は期待できること、⑤について、リハビリが必要であること、をそれぞれ説明している。

また、③については、そもそも、当時の医学水準では、乳房切除縮小術は、当時の医学水準における最高の手術であり、乳房温存術を選択する余地はなく、被告には乳房温存手術の説明を要求されるいわれはない。

したがって、被告には説明義務違反はない。

3  守秘義務違反の有無

(原告の主張)

医師は、正当の理由がないのに、業務上取り扱ったことについて知り得た患者の秘密を漏らしてはならないという義務を負っている(刑法一三四条一項)。

しかるに、被告は、平成三年四月四日ころ、原告と同時期に入院していた他の患者に対して、原告が初期の癌であることを、原告の承諾を得ずに告げて、右義務に違反した。

(被告の主張)

被告が入院した当時、たまたま、乳癌患者が四人いて、そのうち二人は癌の種類や症状が重く、転移の可能性が高かったので、二人を和泉市民病院で放射線治療を受けさせていたが、他の二人が自分たちも放射線治療を受けるべきではないかという不安を訴えたので、その不安を解消するため、「あなたたちの癌は早期であり、放射線治療は必要ない」旨を説明したにすぎない。

4  右一ないし三が肯定された場合の原告の損害

(原告の主張)

原告は、被告の右債務不履行又は不法行為により、次のとおり、合計一〇八三万六八五二円の損害を被り、右損害の賠償を請求するにあたり弁護士費用として一〇八万円の損害を被った。

(一) 乳房温存手術を受けることができず、意思に反して乳房切除術をされたことにより、治療費五三万六八五二円(但し、被告医院への入通院治療費六六万六八九〇円から国民健康保険からの還付金一三万〇〇三八円を差し引いたもの。)、精神的苦痛に対する慰謝料として一〇〇〇万円相当の損害を被った。

(二) また、被告の守秘義務違反により、原告は精神的苦痛を受け、これに対する慰藉料として三〇万円相当の損害を被った。

第三  判断

一  前記争いのない事実に、証拠(甲二、七、乙一、九、一〇、一三、一六(後記採用しない部分を除く。)、原告本人、被告本人(後記採用しない部分を除く。))及び弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められる。

(当事者)

1 原告は、昭和二三年生の既婚の女性である。

原告は、昭和四三年に短期大学を卒業したあと、同年四月から同四七年三月まで大阪府下の中学校で保険体育の教諭をしていたが、結婚を機に退職して主婦業に専念し、そのかたわら、トランポリン教室やソフトボール競技を続けていた。その後、育児が一段落した昭和五七年頃より、大学時代に取得していた中学校教諭二級免許の資格や育児の経験を生かし、社会体育、幼児体育の指導者として幼稚園や体育館で活動するようになり、また平成元年頃より夫の経営する塗匠井貝有限会社で取締役に就任し、実務に従事している(甲七、原告本人)。

2 被告は、肩書地において、「古妻クリニック」という名称で病院(以下「被告病院」という。)を開設し、医業を営む医師である。

診療科目は、外科、整形外科、胃腸科、内科、理学療法科であり、放射線科は設置していない。

被告は乳癌研究会の準会員(個人会員)、被告医院は、同研究会の正会員(施設会員)であり、前記診療科目と併記して、特に乳腺特殊外来を標榜して乳癌の手術を手掛けている(乙一六)。

しかし、被告が乳房温存療法を採用した経歴は、昭和六三年に乳癌か否かの限界的な事例について一例、平成四年に一例、平成五年に二例であり、右いずれの実施例においても放射線治療は行なっていない(被告本人)。

(本件手術に至る経過など)

3 原告は、平成三年一月中旬ころ、右乳房の右上部分で腋の下に近いところに、小さなしこりがあることを発見した。

そこで、原告は、平成三年一月二八日、地元にあり、診療科目と並べて乳腺特殊外来の看板を掲げている被告医院を訪れ、院長である被告の診察を受けた。

被告は、原告を触診し、原告の右乳房の右上部分外側の腋の下に近いところ(外上方四半分)に、大きさが一センチメートル×一センチメートルのしこりがあること、しこりは腋窩リンパ節にふれないことを確認した(甲二、乙一)。

被告は、原告のしこりが、弾力性があって硬く、その表面はでこぼこしており、その部分をつまむと、エクボ状に皮膚がへこむという状態(弾性硬)にあること、レントゲン検査(マンモグラフィー)の結果、しこり部に、微細石灰様の像が見られたことから、悪性であるとの疑いを持った(甲二、乙一、被告本人)。

被告は、右検査の結果、原告に対し、「一部だけ取ります。」「成人病センターは混んでいて、またこちらに廻されます。」と言った。

4 同月三〇日、被告は、原告に対し、乳房の超音波検査(エコー)を実施し、注射針でエコーにあわられたしこり部分を刺して細胞を吸引する吸引細胞診(針生検)を行なった。

同年二月二日に、右針生検の結果が判明したが、結果はクラスⅠであり、悪性の細胞は出なかった。そこで、被告は、原告のしこりをさらによく調べる必要があると考え、しこりを取り出して病理学的に調べる手術生検を実施することにした。

5 同月四日、被告は、原告に対し、再度、触診により、しこりがあることを確認したうえ、手術生検が必要であることを原告に伝えた。

そして、血液検査を行ったうえ、同月一二日、被告は、原告に対し、手術生検を実施し、しこりを摘出した。

右生検は、局所麻酔等の準備を含め、四〇分程度かかった。

被告は、取り出した塊を原告に見せ、「よく見ておくんですよ。」「さわってみなさい。」と言った。

摘出したしこりについての被告の肉眼的所見は悪性であった。

被告は、摘出したしこりを押捺細胞診と病理組織検査に廻した。

6 同月一四日、右押捺細胞診と病理組織検査の結果が出た。

押捺細胞診の結果は、パパニコロー染色の判定でクラスⅤ、すなわち悪性であった。

また、病理組織検査の結果は、原告の乳癌は湿潤性の充実腺管癌であった。

そこで、被告は、同月一六日、原告に対し、右検査の結果を伝え、入院して手術する必要があること、生検をしたので手術は早い方がいいこと、乳房を残すと放射線で黒くなることがあり、再発したらまた切らなければならないことを説明した(被告本人)。

7 その後、原告は、毎日、被告医院に通院した。

そして、同月一九日、被告は、原告の手術生検の傷の抜糸を行い、原告に対し、手術の日は同月二八日とし、入院の日はその二日前(二六日)か、前日(二七日)とすることを伝えた(甲二、被告本人)。

8 同月二〇日、原告は、被告医院において、手術に備えて、血圧、心電図の検査を受けた(甲二、乙一六)。

そして、そのころ、被告は、原告に対し、「全部取ります。」「筋肉は残します。」と言った。また、原告が、看護婦に、入院期間や自分でトイレに行けるのはいつか等と尋ねたのを受けて、被告は、入院期間は一か月位であり、手術の翌日の午後から一人でトイレに行けると言った。

9 原告は、二六日、被告医院に入院し(甲二)、同日付けで、夫を身元引受人として「入院申込書」と「身元引受書」ないし「誓約書」と題する被告医院の定型用紙の所定欄に住所、氏名など所定事項を記入し、被告医院に提出した(乙九、一〇)。

そして、原告は、同日、予め、便せんに、最近の新聞で、乳がん治療は乳房を切ることから可能な限り残す方向に変わってきたとの記事を読んだ旨、今後女性として四十数年間生きなければならないから、可能であるならば乳房を残して欲しい旨をしたためて密封した手紙(以下「本件手紙」という。)を、当日回診に来た被告に手渡したところ、被告は、「わかりました。」と言って、これを受け取った(甲一三、原告本人)。

10 同月二八日、被告の執刀で、原告に対し、本件手術が行なわれた。

本件手術では、非定型的乳房切除術が採用され、乳房を切断し、乳腺を全部摘出したうえ、腋窩リンパ節を郭清するが、大胸筋を残す方法が採られた(甲二、乙一)。

11 本件手術の後、摘出した組織について行われた病理組織検査の結果では、リンパ節転移はなく、しこりの湿潤も認められなかった(甲二、乙一)。

12 原告は、平成三年四月六日、被告医院を退院し、その後も、同年九月二一日まで被告医院に通院した(甲二、乙一、一六)。

以上の事実が認められる。

もっとも、被告は、本件手紙の内容が「気持ちの整理がつきましたので、全部お任せします。」との趣旨のものであったと供述する。

しかし、もし本件手紙の内容が被告の供述するようなものであったとするならば、もともと承諾書をとっていない被告としては、承諾書に代わるものとして保存しておくのが自然であるうえ、原告がわざわざ封書で渡す必要はなく、口頭で伝えれば足りるというべきであるから、少なくとも手紙を目前にした原告が医師の意向に反し、口頭では伝えにくいことがその内容となっていたとみるのが自然であることに鑑みると、被告の右供述部分は、採用できない。

二  争点1(本件手術について、被告には、術式の選択において過失があったといえるか。被告には、原告に対し乳房温存療法を実施すべき義務ないし原告に乳房温存療法を受ける機会を与えるべく同療法を実施している病院へ転医させる義務があったか。)について

1  前記認定した事実及び証拠(甲四、五、六の一、九、三三、三四、四〇、乙一三、三二、三四、証人妹尾、同近藤、被告本人)によれば、次の事実が認められる。

(一) 乳房温存療法について

乳房温存療法は、乳癌の手術の術式のひとつであり、腫瘤を含めて乳房の一部を切除する乳房温存術を行い、腋窩のリンパ節郭清や残存した乳房への放射線治療の併用を考慮する治療法であり、腫瘤を含めて乳房の一部を取る、腋窩リンパ節郭清を施行する、残存乳房に放射線療法を行うという三つの部分で構成される(甲五)。

(二) 乳房温存療法の評価について

乳房温存療法は、我が国においては、本件手術の時点で、一方では、外科的侵襲が少なく、乳房を喪失しないため、精神的、美容的影響、術後の患側上肢の運動障害の点において、乳房切断術よりもすぐれているとして、生活の質(クオリティオブライフ)の観点から積極的に評価されてきたが、他方で、乳房温存療法には癌細胞の遺留や、併用される放射線療法の問題があり、残存した癌が将来局所再発した場合には、再手術をしなければならず、その場合には逆にクオリティオブライフが阻害されることになるとして、クオリティオブライフの観点からも、必ずしもすぐれているとばかりはいえないという評価をする者もあった(甲五、四〇、乙三四、証人妹尾、証人近藤、被告本人)。

(三) 乳房温存療法の実施状況

(1) 乳房温存療法は、欧米で採用され始めた乳癌手術の術式であり、一九九〇年六月、米国のNational Institute of Health(NIH)Consensus Conferan-ceは、StageⅠ、Ⅱの乳癌には、標準術式として、乳房温存療法を選択するのが望ましいとした(甲四、五)。

我が国では一九八九年(平成元年)二月一七日に開催された乳癌研究会で、「乳癌温存術と放射線治療」というテーマでシンポジウムが行われ(甲三三)、同年四月に、厚生省助成「乳がんの乳房温存療法の検討」班(いわゆる霞班)が設置され(甲九、乙一三)、同年七月二一日、二二日に開催された乳癌研究会で、主題の一つとして乳房温存術式が取り上げられる(甲三四)などして、一九九〇年代に入って、ようやく乳房温存療法への関心が高まり、これを試みる施設も多くなってきた(甲六の一)。

(2) そして、乳癌研究会のアンケート結果によれば、乳癌の専門医で構成された乳癌研究会二三六施設における乳癌手術中における乳房温存療法の割合は一九八九年(平成元年)度6.5パーセント、一九九〇年(平成二年)度10.2パーセント、一九九一年(平成三年)度12.7パーセントという状況であった(乙三二)。

(3) 本件手術が行われた平成三年二月二八日までに、いわゆる霞班の二年間の成果が報告された(乙一三、甲九)。同報告書は、欧米からの乳房温存療法の報告が数多くなされ、その華々しい成績に接し、温存療法という考え方に全く伝統をもたない日本の乳癌外科医の多くが疑問、懐疑、不安、嫌悪を抱いているものの、同時に大きな興味をも感じているのが現況であるとしたうえで、霞班の構成員らの所属する各施設は、乳房温存療法に対し、基本的には積極姿勢で臨み、乳房温存療法の安全性を確保するため、別表一のとおり、同療法の適応範囲と残存癌細胞に対する照射放射線量などに関する霞班の乳房温存療法実施要綱を設定し、医学雑誌「臨外」一九九一年二月号で公表している(乙一三、甲九、以下右要綱を「本件要綱」という。)。

そして、霞班は、別表二のとおり、一九八九年(平成元年)四月より一九九〇(平成二年)年一一月までの間、合計一五二例の本件要綱に従った乳房温存療法を施行したところ、一例に局所再発が認められたので、放射線照射の後再切除した結果断端には癌の波及がないStumpマイナスで、健存である旨、また、右各例に遠隔転移例はなかった旨同誌に報告している。

また、霞班は、同誌において、本件要綱の根幹を成すものとして、①今後日本でも乳房温存療法が少しずつ実施されると推定されるので、医学的リーダーになるように班は統一的な実施要綱を作る必要があること、②初めから適応を拡げないで、石橋を叩いて渡る態度で臨み、厳重な適応で開始して安全を確認しつつ、適応を拡げる方針をとる。③したがって、癌の大きさは二センチメートルまでのものとして、臨床上、腋窩転移の認められない症例に絞ることなどを挙げている。

(4) 本件手術前、右(1)ないし(3)以外にも、左記のとおり乳房温存療法に関する評価、実施例についての報告がなされている。

① 慶應義塾大学医師近藤誠(以下「近藤医師」という。)は、昭和六二年五月九日号の日本医事新報で、乳房温存療法について左のとおり報告している(甲三一、証人近藤誠)。

アメリカでは、一九八六年(昭和六一年)七月現在で、医師に乳房保存術の説明を義務づける法律を制定している州が一一州ある。

ミラノ癌研究所において、七〇〇名の、直径二センチメートル以下の乳癌患者(腋窩リンパ節は触れない。)を二分して、ハルステッド手術と乳房保存術により治療したところ、非再燃率・生存率とも全く差がなく、経過観察期間を一二年までのばした追加報告でも同様であった。

同研究所では、乳房保存術を標準治療法としている。

アメリカのNational Surgical Ad-juvant Breast Project(NSABP)では、非定型的手術を対照群として直径四センチメートル以下の乳癌患者(腋窩リンパ節は触れてもよい。)一八〇〇余名において乳房保存術の有効性を調べた結果、生存率等の指標は、すべて乳房保存群の方が良好であった。

近藤医師は、昭和五七年より一三名の乳癌患者に乳房保存術による治療を行ったが、いずれも局所再発、リンパ節転移を認めていない。

② 当時川崎医科大学教授であった妹尾亘明は、「乳癌の臨床」一九八九年一二月号で、乳腺部分切除術について左のとおり、手術症例を報告している(甲四一、甲六八、乙三五)。

一九八七年(昭和六二年)四月から一九八九年一〇月までに乳腺部分切除を施行したのは、StageⅠ(二五例)、Ⅱ(一二例)を中心とする四〇例で、同期間中の全乳癌根治術施行症例の23.8パーセントに当たる。

術後補助療法として放射線療法を施したが、特に後遺症はなく、最長二年七か月経過後も再発例がない。

以上の事実が認められる。

2  右で認定した事実によれば、平成三年二月当時、乳房温存療法について、欧米で、多数かつ長期にわたる施術症例の比較試験により、従来の手術と同等又はそれ以上の安全性を示す結果が得られ、同療法を標準術式に採用する施設すら存在しており、また我が国においても、一部の専門医により、短期間ながら、相当数の同療法の実施により殆ど再発例がなく、同療法を積極的に評価する報告がなされており、専門医の間で同療法に対する関心が高まりつつあったこと、しかしながら、同療法は、乳癌研究会に参加する乳癌の専門医の間においても、再発のおそれ、併用放射線療法による障害の可能性をめぐり、いまだ評価が定まっていたとはいえず、本件要綱に基づく適応にあると判断される場合であっても、それが同医師らの間で、広く原則として施行されていたわけではなく、いまだ安全性が確立された術式ということはできなかったのであるから、原告が乳房温存療法の適応にあったとしても、被告には、原告に対し乳房温存療法を実施すべき義務があったとするのは相当ではなく、また、原告に乳房温存療法を受けさせるべく、同療法を施行している他の医療機関に転送する義務があったということもできない。

したがって、この点に関する原告の主張は採用できない。

三  争点二(本件手術を実施するに際し、被告は、原告に対し、説明義務を尽くしたといえるか。)について

1  前記認定した事実によれば、被告が、本件手術を施行する前に、本件手術に関し、原告に対して行った説明は、次のとおりである。

(一) 平成三年二月一二日、被告は、原告に対し、手術生検を実施し、その際、取り出した塊を原告に見せ、「よく見ておくんですよ。」「さわってみなさい。」と言った。

(二) 同月一六日、被告は、原告に対し、生検により取り出したしこりの押捺細胞診の結果として、パパニコロー染色の判定でクラスⅤ、すなわち悪性であったこと、病理組織検査の結果として、原告の乳癌は湿潤性の充実腺管癌であったことを伝え、入院してさらに手術をする必要があること、手術生検をしたので手術は早い方がいいこと、乳房を残すと放射線で黒くなることがあり、再発したらまた切らなければならないことを説明した。

(三) 同月一九日、被告は、原告に対し、手術生検の傷の抜糸をし、その際、手術の日は同月二八日とし、入院の日はその二日前(二六日)か、前日(二七日)とすることを伝えた。

(四) 同月二〇日ころ、被告は、原告に対し、本件手術について、「全部取ります。」「筋肉は残します。」と言った。

また、入院期間は一ヵ月で、手術の翌日の午後から一人でトイレに行けるということを説明した。

2 ところで、医師は、手術のような侵襲的な医療行為を行う場合には、患者の自己決定権を尊重し、その同意を得るために、一般的には、当該疾患の診断(病名と病気の現状)、実施予定手術の内容、手術に付随する危険性、他に選択可能な治療方法とその利害得失、予後について説明すべき診療契約上の義務があると解するのが相当であり、これを乳癌手術についてみると、①乳癌であること、及び乳癌の進行程度、性質、②実施予定手術の内容、③他に選択可能な治療方法とその利害得失、予後について説明すべきことになるが、右③の、他の術式の選択可能性の説明に関しては、乳房が体幹表面にあって女性を象徴するものであり、本件手術のように、手術によりこれを喪失することは、当該患者に、単に身体的障害を来すのみならず、その外観上の変貌による精神、心理面への著しい影響を及ぼすものであることを考慮すると、治療に当たる医師は、生存率の向上に併せて、患者の精神的側面や家庭生活面における質の向上(クオリティオブライフ)にも配慮して、患者の自己決定の機会を失わせることのないように説明すべき義務を負っているといわなけれはならない。

このような乳癌手術における特質に鑑みると、右説明義務の対象とされるべき術式は、手術の時点において、一般医師に広く知れ渡って有効性、安全性が確立しているもののみならず、専門医の間において一応の有効性、安全性が確認されつつあるもので、当該医師において知り得た術式も包含されると解するのが相当である。

3  以下本件についてこれらの点をみることとする。

(一) 乳癌であること、及び乳癌の進行程度、性質について

被告は、原告に対し、手術生検を施行した際、手術生検により取り出した塊を直接原告に示し、触らせたうえ、後日、右塊の押捺細胞診の結果として、パパニコロー染色の判定でクラスⅤ、すなわち悪性であったこと、病理組織検査の結果として、原告の乳癌は湿潤性の充実腺管癌であったことを伝えているから、この点に関し、被告は一応の説明義務を尽くしていたというべきである。

これに対し、原告は、被告が行ったパパニコロー染色の判定でクラスⅤであるという説明の仕方は、素人である原告には理解できないうえ、極めて悪い癌であるかのような誤解を招くものであったとして、被告は、説明義務を尽くしたことにはならないと主張する。

たしかに、右説明の部分だけをとらえれば素人である患者にはわかりにくいものであるとしても、しかし、それは、押捺細胞診の結果をそのまま伝えたものであって、説明の内容が誤っているわけではなく、説明を全体としてみれば、取り出した塊が良性の腫瘍ではなく悪性の腫瘍である癌であることと、その種類及び大きさについて説明がなされていると評価できるから、この点に関し、被告に説明義務違反があったということはできない。

(二) 実施予定手術の内容について

被告は、原告に対し、入院してさらに手術をする必要があること、乳房を全部切除すること、筋肉は残すことを伝えており、短いことばながら、実施する手術の特質は伝えているから、最低限の説明義務は尽くされているというべきである。

(三) 他の術式の選択可能性について

この点に関し、被告は、原告に対し、平成三年二月一六日、同月一二日の手術生検により取り出した塊の押捺細胞診、病理組織検査の結果を伝えるに際し、乳房を残すと放射線で黒くなることがあり、再発したらまた切らなければならないとして、間接的かつ消極的な形で温存療法に言及したにとどまり、同月二八日の本件手術の施行にいたるまで、特に乳房温存療法に言及していない。

ところで、本件では次のような事情がある。

(1) 前記認定のとおり、原告の乳癌は、本件手術の術式の選択の前に、①充実腺管癌(髄様腺管癌)で湿潤型、②しこりの大きさは一センチメートル×一センチメートルで病期はⅠ期、③しこりの位置は、外上方四半分、④腋窩リンパ節にふれないものであることが判明していた。

これは、一九九一年(平成三年)二月号の雑誌「臨外」に発表された霞班の本件要綱における乳房温存療法の適応基準を充足するばかりでなく、平成三年二月当時乳房温存療法を実施していた殆どすべての医療機関において乳房温存療法の適応にあるとされているものであった(甲三六、証人妹尾、同近藤)。

(2) 前記認定のとおり、被告は、開業医ながら乳癌研究会に参加する乳癌の専門医であり、当時、乳癌の専門医の間では、乳癌研究会でたびたび乳房温存療法がテーマの一つとして選択されるなど関心が高まっていた。被告自身も、限界事例についてではあるが、一例、乳房温存療法を実施した経験がある。

以上のとおり認められる。

右で認定のとおり、被告が本件手術を施行した時点には、既に、欧米で多数の被験者による比較試験で、乳房温存療法が従来行われていたハルステッド法、非定型的手術に比べて、乳癌の再発率、生存率において異ならないかむしろ秀れていることが確認されており、とりわけアメリカにおいては、乳房温存療法を標準術式として選択するのが望ましいとされ、相当数の州においては医師による乳癌患者への同療法の説明義務を法制化していること、我が国においては、医学界では実施例が欧米に比べで少なく、同療法に対する評価は分かれていたものの、霞班による慎重な本件適応基準を定めた上での右実施例においては、併用される放射線照射による格別の障害もなく、一例の再発例も再手術により健在であること、その他の専門医らによる同療法実施例においても再発を見ていないこと、乳癌研究会のアンケート結果によっても二三六施設で同療法の実施数が10.3パーセントに達していることなどの事実によれば、被告が本件手術を行った平成三年二月二八日の時点において、乳房温存療法は、霞班による本件要綱の適応基準を充たす場合には、専門家の間において一応の有効性、安全性が確認されつつあった術式ということができる。

したがって、被告は、乳癌専門医として自ら乳房温存療法を手掛けたことがあり、同療法について右内外の情報を知り得たのであるから、原告から本件手紙を受領し、可能な限り乳房を残して欲しいとの原告の意向を知った以上、右時点において、再度、原告に対し、本件手術の術式について説明すると同時に、前記認定した乳房温存療法の実施状況、評価及び霞班の本件要綱に基づく乳房温存療法の適応にあるとされていることを平易に説明し、ただ我が国の専門医の中には、同療法には癌細胞の残存の問題があり、局所再発の不安、及び併用される放射線療法について放射線障害の不安がある旨の見解もみられることなどを説明したうえ、原告本人が希望すれば乳房温存療法を行う医療機関へ転医することも可能であることを説明して、原告をして、本件手術のような、乳房切除術と乳房温存術のいずれを選択するかの機会を与え、原告の意思を再度確認すべき診療契約上の義務があったというべきである。

しかるに、被告が右説明を怠ったことは、前記認定説示したところにより明らかであるから、右説明義務違反の債務不履行があったといわなければならない。

四  争点三(守秘義務違反の有無)について

1  証拠(被告本人)によれば、次の事実が認められる。

(一) 本件手術の当時、被告医院には乳癌の手術を受け、入院している患者が原告を含めて四人おり、うち原告以外の二人は放射線治療も受けていたが、原告ともうひとりの患者は放射線治療を受けていなかった。

(二) 被告は、放射線治療を受けていなかった患者のひとりに対し、放射線治療が不要であることの説明を求められて、病状が軽いから放射線治療は必要ないという説明をしたことがある(被告本人)。

以上の事実が認められる。

2  右で認定した事実によれば、被告が、原告の乳癌の状態について、特に他の患者に告げたということはできない。

したがって、この点に関する原告の主張は理由がない。

五  争点四(原告の損害)について

1  前記認定説示のとおり、被告には、本件手紙を受領した後、更に説明義務を尽くさなかった点において、右義務の不履行がある。

ところで、原告は、診療契約不履行又は不法行為に基づき、本件手術のため被告に支払った治療費相当の損害賠償をも求めている。

しかしながら、被告は、本件乳房切除手術の施行により、原告の乳癌を治療し、右癌の増殖・転移による原告の生命・身体に対する危険性を排除した限りにおいては、原告との診療契約上の債務を履行していることは前記認定説示により明らかであるから、この点に関する原告の主張は失当である。

したがって、被告の右説明義務の不履行と相当因果関係にある原告の損害は精神的苦痛に対するものに尽きるというべきところ、原告が、可能であるならば乳房を残して欲しい旨の手紙を被告に手渡したのは、既に被告から乳房を全部切除するとの説明を受け、これに応じて被告医院に入院した後であり、その文面も本件手術を明確に拒絶する趣旨のものではないこと、及び前記認定した事実の経過、被告の右不履行の程度、内容などを総合すると、これに対する慰謝料としては二〇〇万円が相当である。

2  原告が、原告訴訟代理人に本件訴訟の提起と遂行を依頼したことは明らかであり、本件の内容、認容額などを総合すると、弁護士費用としては五〇万円が相当である。

第四  結論

以上によれば、本訴請求は、原告が、被告に対し、本件診療契約の債務不履行に基づき、二五〇万円及びこれに対する平成三年二月二八日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるから認容し、その余は失当であるから棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条を各適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官鎌田義勝 裁判官鈴木陽一郎 裁判官原田豊は、転補のため、署名捺印できない。裁判長裁判官鎌田義勝)

別表一、二〈省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例